明治22年の解禁とは?

しまんちゅ工房あらかき

2022年12月20日 10:22

はいさい!

しまんちゅ工房のあらかきです(^^)


今日は以前から気になっていたことを調べて理解するための記事でございます(^^)


僕の祖父母が新垣花鉢工場を1950年に創業して
父が二代目
叔父さんが三代目として沖縄の土をつかって
花鉢、レンガ、タイル、赤瓦、鬼瓦、シーサーを制作してきました。


その赤瓦なのですが
実は沖縄の青い空に良く映える赤い瓦は近代になって普及した沖縄の文化なんです。

その基点となるのが明治22年


どうしてこの22年という年号が出てきて
どんな資料が根拠になっているのだろう?と調べてみました。


赤瓦組合が持っている資料から明治22年と分かったのですが

その根拠は?という事で以前から気になっていました!


これにあったようです(^^)!


沖縄は廃藩置県として近代化を遂げて行きます。
日本の正式な一員になったのは
1872年  明治5年ですので

明治22年までに色々と行政問題があったのでしょう。


明治5年に一気に変らなかったわけですが
それまで王政だった沖縄がいきなり近代化ですから
数百年かかるような革命を十数年で実施していくので
当時の庶民や貴族の人達の心境を知りたくなりました(^^)


歌にされていないかな?と思います。

今度の機会にでも!


話を戻して

明治22年に何が解禁になったのだろう?


これでした!



敷地・家屋の制限令



いやーーー驚いた!


1737年に蔡温が発令した制度が1889年(明治22年)まで続けられてきたとは・・・。


実に162年


どういう制度だったかというと

屋敷の大きさを身分によって定めた法律です。


庶民の家屋はこの大きさまで!とか瓦ふきの禁止、
そして良質な木材の伐採禁止など細かく規制されています。

なるほどなーーー


それで一気に瓦屋根が普及したんですね(^^)




また同時にシーサーも民間にまでいっきに普及したのだと思います。
それまで

シーサーは村落獅子として世界の獅子像文化と同様

沖縄でも公共的な役割をもっていたのですが
世界でも類を見ない民間にまで普及した獅子像文化になったのは


蔡温がつくった敷地・家屋の制限令のお蔭という事になります。


162年の我慢の蓄積がいっきに爆発したのでしょうか?


ただこの条例もきっと当時には大切な役割があって制定されたのだと思います。

法律はいつの時代も

それこそが目的ではなく
世界の安寧が目的で法律は手段だとよくわかります。


また

瓦じたいも首里城近辺でしか焼くことができなかったという事と

間仕切船舶の定数制限も明治22年の10月まであったそうです。


定数制限が解除になると
ぞくぞくと大型のやんばる船が造られ
当店がある与那原町へ荷揚げされていきます。


これで

与那原町が沖縄一の赤瓦製造産地になるわけです。



こう書いてやっぱり当時の庶民と貴族の乖離とか調べたくなりました。


力強い庶民と
没落していく貴族たち


ただ芸術や文化を育ててきたのは間違いなく特権階級の人達だと思うのです。


人生を文化に費やす事のできる身分


ただ

一方で生活必需品を制作してきた職人集団が生み出す民藝もあります。


民藝になった織物。染物、漆器あるのかなー?


次回の勉強にしたいと思います。


シーサーは、今芸術の域に入っていると思います。


屋根にのる漆喰シーサーは、民藝ではなく
沖縄のサービス精神から生み出された傑作ですが

これについても
もっと勉強していきたいと思います!!!!

今日はこの辺りで!!!

小屋づくりに戻ります!!!


今日もお越し頂きいっぺー!にふぇーでーびる(^^)

またやーさい!









写真は宮古島の上比屋山遺跡です。
14-15世紀の集落だったそうですが、

沖縄は明治22年までは、写真のような茅葺屋根の光景があったのですね。

茅葺屋根も素敵です。

やばい!どんどん興味が出てきます!!!


これにて!!!









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