与那原町大見武の村落獅子
はいさい!
しまんちゅ工房のあらかきです(^^)
沖縄は今年に入って雨不足が続いていましたが、
梅雨前のうりずんの季節に早くも雨が続いています。
水不足には恵の雨なのですが、ここは観光地沖縄♪
観光地の上だけ雨が降らないでくれるといいなーと親切なのか欲の深さなのか?
ただこの誰かの為に、あるいは欲を源泉にして人類は進化を遂げてきたのは間違いありません。
山火事が起きないように
災害から守ってくれますように
「生きる」という事はそれだけで欲の塊なのかもしれません。
そもそも「欲」の結果が子孫繁栄ですので欲を打ち消すのではなくて
どう向き合うのか?だと思うのですが、この100年の進化は未だかつてない進化だと言われています。
江戸時代300年続きますが、
現代の30年の進化は凄い。
でも平和な300年で生まれた芸術と文化は凄い。
落ち着いて、立ち止まって深く考える事も
流れる川に身を任せるのも現代ではどちらも選択可能な事です。
いい時代に生を受けました。
シーサーを勉強しているとどんどん過去にさかのぼっていきます。
歴史をたどる事で見えてくるシーサーの本質
「祈り」「願い」「希望」「恐れ」「不安」「鎮魂」
これらを包括して鎮座していくその姿に僕は神を見ます。
特に村落獅子は、琉球石灰岩で製作されていることが多くて年月をかけて風化していきます。
自然が造形したその姿は、人と自然が共同で製作した作品で、人の想いを自然が意図もなく
ただただ
宇宙の現われのように造形していく。
自然の美しさは、想いがありません。
そこには自然を見て私たちが感じる「美しい」という想いだけがあります。
自然そのものは、ただただある
あるがまま
ないがまま
ただその圧倒的なエネルギーといいますか、無限に感じられる自然も私達という命を通してみれば有限にもなります。
そして
この言葉が自然と出てきます。
ありがたい
あり続けるのが不可能である
琉球石灰岩で製作された石獅子を見ると素直にそう感じます。
人も事もモノも自然もうつろう
永遠に同じ形ははない
あることがむずかしい
有難い
あり続けることが難しい
と私たちは感じるのですが、それはなぜ感じるのかと言うと
一方で「永遠」の存在を知っている
あるいはどこかで感じているからだと思うのです。
手塚治虫先生は、それを「火の鳥」という漫画で「意識」と表現しました。
坐禅をしていると
我が消失したとき、意識そのものになる時があります。
父の制作風景をみると
とても静寂です。
「あれ?父は息をしているのか?」と思う程、静かで集中しています。
そんな情景はとても自然に近いモノがあって僕は感動します。
守り神を制作しているという「想い」をこえて大いなる意識だけがそこにある。
その意識だけは永遠なのだと思います。
「自然体」とは我がなく、命そのものの状態だと思うのです。
まさに赤ちゃんがそうですよね(^^)
村落獅子を見ていると
どんどん赤ちゃんに戻っていくように思います。
風化して風化して最後はどのような形になるのでしょうか?
大きな、なんて事のない、転がっている大きな塊の琉球石灰岩はかつて村落獅子だったかもしれません。



「幸せになりたい」
これも自然に思う事はあっても自然ではありません
なぜなら自然には災害も含まれます。
常に自然な状態だと比べようがないので「幸せ」という言葉も存在できません。
幸せとは、一時の状態で、感じるものだとすれば
いつだって人は幸せになれます。
このあり続けることが難しい世界で
美味しい空気がある。
そう想えるのも人です。
また、
雨を願う。
しかし、人の想いとは関係のないところに自然はあります。気まぐれに雨が降り、雷がない、台風もくる。
でも願わずにはいられない。
祈らずにはいられない。
それは人としての自然な形だと思います。
人の想いで生まれ、自然がそれを凌駕していく。
そんな事を見せてくれる石獅子は、まさに当店が掲げる一番の精神的支柱「不易流行」の形だと思っています。
という事で!もっと沖縄には石獅子がありますので
頑張って紹介していきたいと思います(^^)
今日、紹介した石獅子は、当店がある与那原町(よなばる)の大見武(おおみたけ)にある獅子です。
町内の石獅子は戦後に制作されたモノもあるのですが
この獅子は戦前からあったと記録されているようです。
なんともいえない佇まいです。
後ろからの絵が可愛くてしようがない(^^)
見るだけで笑顔になる獅子でした。
それでは!良い週末をお過ごしください
ぐぶりーさびら(失礼いたします)
しまんちゅ工房のあらかきです(^^)
沖縄は今年に入って雨不足が続いていましたが、
梅雨前のうりずんの季節に早くも雨が続いています。
水不足には恵の雨なのですが、ここは観光地沖縄♪
観光地の上だけ雨が降らないでくれるといいなーと親切なのか欲の深さなのか?
ただこの誰かの為に、あるいは欲を源泉にして人類は進化を遂げてきたのは間違いありません。
山火事が起きないように
災害から守ってくれますように
「生きる」という事はそれだけで欲の塊なのかもしれません。
そもそも「欲」の結果が子孫繁栄ですので欲を打ち消すのではなくて
どう向き合うのか?だと思うのですが、この100年の進化は未だかつてない進化だと言われています。
江戸時代300年続きますが、
現代の30年の進化は凄い。
でも平和な300年で生まれた芸術と文化は凄い。
落ち着いて、立ち止まって深く考える事も
流れる川に身を任せるのも現代ではどちらも選択可能な事です。
いい時代に生を受けました。
シーサーを勉強しているとどんどん過去にさかのぼっていきます。
歴史をたどる事で見えてくるシーサーの本質
「祈り」「願い」「希望」「恐れ」「不安」「鎮魂」
これらを包括して鎮座していくその姿に僕は神を見ます。
特に村落獅子は、琉球石灰岩で製作されていることが多くて年月をかけて風化していきます。
自然が造形したその姿は、人と自然が共同で製作した作品で、人の想いを自然が意図もなく
ただただ
宇宙の現われのように造形していく。
自然の美しさは、想いがありません。
そこには自然を見て私たちが感じる「美しい」という想いだけがあります。
自然そのものは、ただただある
あるがまま
ないがまま
ただその圧倒的なエネルギーといいますか、無限に感じられる自然も私達という命を通してみれば有限にもなります。
そして
この言葉が自然と出てきます。
ありがたい
あり続けるのが不可能である
琉球石灰岩で製作された石獅子を見ると素直にそう感じます。
人も事もモノも自然もうつろう
永遠に同じ形ははない
あることがむずかしい
有難い
あり続けることが難しい
と私たちは感じるのですが、それはなぜ感じるのかと言うと
一方で「永遠」の存在を知っている
あるいはどこかで感じているからだと思うのです。
手塚治虫先生は、それを「火の鳥」という漫画で「意識」と表現しました。
坐禅をしていると
我が消失したとき、意識そのものになる時があります。
父の制作風景をみると
とても静寂です。
「あれ?父は息をしているのか?」と思う程、静かで集中しています。
そんな情景はとても自然に近いモノがあって僕は感動します。
守り神を制作しているという「想い」をこえて大いなる意識だけがそこにある。
その意識だけは永遠なのだと思います。
「自然体」とは我がなく、命そのものの状態だと思うのです。
まさに赤ちゃんがそうですよね(^^)
村落獅子を見ていると
どんどん赤ちゃんに戻っていくように思います。
風化して風化して最後はどのような形になるのでしょうか?
大きな、なんて事のない、転がっている大きな塊の琉球石灰岩はかつて村落獅子だったかもしれません。



「幸せになりたい」
これも自然に思う事はあっても自然ではありません
なぜなら自然には災害も含まれます。
常に自然な状態だと比べようがないので「幸せ」という言葉も存在できません。
幸せとは、一時の状態で、感じるものだとすれば
いつだって人は幸せになれます。
このあり続けることが難しい世界で
美味しい空気がある。
そう想えるのも人です。
また、
雨を願う。
しかし、人の想いとは関係のないところに自然はあります。気まぐれに雨が降り、雷がない、台風もくる。
でも願わずにはいられない。
祈らずにはいられない。
それは人としての自然な形だと思います。
人の想いで生まれ、自然がそれを凌駕していく。
そんな事を見せてくれる石獅子は、まさに当店が掲げる一番の精神的支柱「不易流行」の形だと思っています。
という事で!もっと沖縄には石獅子がありますので
頑張って紹介していきたいと思います(^^)
今日、紹介した石獅子は、当店がある与那原町(よなばる)の大見武(おおみたけ)にある獅子です。
町内の石獅子は戦後に制作されたモノもあるのですが
この獅子は戦前からあったと記録されているようです。
なんともいえない佇まいです。
後ろからの絵が可愛くてしようがない(^^)
見るだけで笑顔になる獅子でした。
それでは!良い週末をお過ごしください
ぐぶりーさびら(失礼いたします)